「合意のでっちあげ」に関する 手塚のリサーチ

『PR! 世論操作の社会史』 スチュアート・ユーウェン


この本を読んで、はっきりいって、世論操作する側の人たちの振る舞いはまるで野生の生き物のようだと感じた。それに抗う人々の反応にうまーく適応しながら、しぶとく観察と考察を重ねながら、操作する側がつねに有利になるように振る舞い続けるその様。それは結局人が自然そのものの一部として自然と拮抗することをやめ、そうしなくても良いようにそこに頑丈な線を引いて切り離し、その拮抗するエネルギーが人そのものに向けあうことになってしまった結果なのかもしれないとも思う。拮抗するエネルギーは止められないものだから。だから私たちも観察と考察を重ねて、それらにうまーく適応して利用し返せるようにしなくてはいけないのかもしれない。




この本はアメリカにおいて1920年代から90年代へと、巨大企業が世論操作の技術をどのように発展させてきたか、歴史的背景と具体的な企業名や団体名をとともに語ったもので、その中でも具体的な世論操作の事例が興味深い。まず90年に起こった世論操作の事例から始まる。


《事例1》ナイラ証言

​​1990年秋、アメリカのニュース各社にある驚くべき情報を流し始めた。このニュースによれば、イラクのクウェート侵攻後、イラク兵たちがクウェート市の病院に侵入し、数百人の乳児を保育器から引き出し、病院の冷たい床に放置して死なせているとされた。このニュースはイラク軍の残酷さを証明するものとして、アメリカのメディアによって繰り返し報道された。

この報道のソースは仮称ナイラという15歳のクウェート人少女とされ、彼女は1990年10月10日の連邦議会人権委員会において、恐怖のできごとを証言した。彼女の話によると、彼女は「病院ボランティア」で、問題の残虐行為の目撃者だとされた。人権委員会委員長は、彼女の安全のためにその正体は公表しないと宣言した。

 ペルシャ湾岸戦争が歴史記録の中へ消え去った数ヶ月後、「ナイラ」が実は中米クウェート大使の娘ナイラ・アル=サバーであることが発覚した。彼女がいわゆる残虐行為が行われていた時どこにいたのかは、きわめて疑わしい。彼女はそのような事件の目撃者などではなかったのだ。彼女の話の怪しさもさることながら、人権委員会そのものが世界屈指の広告会社ヒル・アンド・ノールトン副社長ゲイリー・ハイメルの手によるものであったことが発覚した。ハイメルは、人権委員会が事情聴取した目撃者の全員を提供していた。ハイメルとヒル・アンド・ノールトンは、亡命中のクウェート王族に雇われて、今回のアメリカ軍介入への国民指示形成を任務としていた。

現在、広告会社ヒル・アンド・ノートンはWHOが資金提供したCOVID19キャンペーンに取り組んでいる。


《事例2》自称「市民組織」の捏造

1993−94年、クリントン政権が全国民をカバーする連邦医療保険制度を推進していたとき、医療=産業複合体は高利潤な利権のためにこの法案を否決に持ち込もうと1億5000万ドル以上を費やしたキャンペーンを展開した。このとき、あたかも反対論が普通のアメリカ人たちから湧き上がってきたかのような演出がおこなわれ、数々の自称市民組織が捏造された。たとえば「医療保険を選択する会」はそのひとつだが、実態は全米保険協会_保険業界のロビー団体_から活動資金を得た組織であった。この組織はテレビCMシリーズを制作し、連邦医療保険への市民の悲観論を演出した。別の第三者組織を標榜した「RXパートナーズ」は一見「草の根」組織のように見えるが、実際にはプリストル=マイヤーズ・スクイブ、イーライ・リリー、ホフマン=ラロシュ、サール、アブジョン、ワーナーランバート(2000年にファイザーと合併)などの巨大製薬企業の連合が作った運動隊で、同じ文章と宛先が書かれたポストに入れるだけの議会への陳情書を、全国市民に送り続けた。


【現在でも行われている世論操作の手法】 人工芝

熱狂を計算づくで演出することも現代文化においては当然のようにおこなわれている。そのための多様な装置の中でも「好き嫌いの表明」は社会の原則と呼ぶべきほどのものになっている。政治家、制作、製品、さらには戦争の人気(や不人気)に関する世論調査の結果が、毎日報道される。「草の根」の意見も、今では賛成か反対かの「即席の」世論製造企業によって作られる(広告業界ではこのように組織された「草の根」的動員を指して、「アストロ・ターフ「人工芝」組織化」と呼んでいる)。


​​【世論操作のキーパーソン 】

フィリップ・レズリー 

1940年代からの米国広告協会の有力者。

隔月のニューズ・レター『人間的雰囲気管理』を出版。

1993年に彼から出版された『人間的雰囲気管理』の中で、レズリーは市民運動(エイズ・地球温暖化、老人虐待、人権)の活発化に危機感を抱き、民衆の反抗を阻止するための「洗練された生き残り戦略」が必要だと警告している。彼は反対勢力を社会的伝染病として描く。「ちょうどポリオにソーク・ワクチンとセイビン・ワクチンが必要なのと同じように、こうした市民運動が不健康な攻撃をしないようにする「ワクチン」が求められている」と、病気のアナロジーで語る。1994年出版の同誌でも、「いまやいかなる組織も、偶発時や外的な力によって民衆の態度が形成されることを許してはいられない。組織は、自分自身で意識の土壌を創造しなければならない。そのためには、たえず傾向を予測し…対策を要するような意識を形成しかねないトレンドを先取りする必要がある。民衆に事前に「予防接種」する方が、攻撃が始まってから対応するより、はるかに効果的である。」と病気のアナロジーを繰り返している。

同誌には、その戦術についての数々のアドバイスが記されている。

・ 「民衆の行動予定」を用意してやる方法。

・ 情報を「意見形成過程」に「流し込む」方法。

・ 正面から「相手を攻撃してはならない。論争は避けること」

・ 「受けての自己利益を暗示することが、いまや必須である。」など


ウォルター・リップマン 世論管理を提唱

​​Wiki(Walter Lippmann、1889年9月23日 - 1974年12月14日[2])は、アメリカ合衆国の著作家、ジャーナリスト、政治評論家であり、「冷戦」の概念を最初に導入した人々のひとりとして、また、現代における心理学的な意味での「ステレオタイプ」という言葉を生み出し、さらに新聞のコラムや著作、特に1922年に出版された『世論』を通してメディアと民主主義を批評したことで知られている[3]。


エドワード・L・バーネーズ リップマンの洞察に学びつつ実践し応用した。

Wikiエドワード・ルイス・バーネイズ(1891年11月22日-1995年3月9日)は、オーストリア系アメリカ人。「広報の父」として知られる広報活動とプロパガンダの専門家。「広報の父」とされる広報・宣伝分野のパイオニア。オーストリア系アメリカ人で、ジークムント・フロイトの甥であり、叔父であるフロイトの精神分析学とギュスターヴ・ル・ボンとウィルフレッド・トロッター(英語版)の群集心理学に注目し、大衆扇動と広報活動の基礎を築いた。

フロイト派の心理学理論をアメリカに持ち込んで普及させた功労者であり、第二次大戦後の米国内で起きた精神分析ブームの火付け役でもある。彼はトロッターの研究する「群衆本能」の結果は社会に不合理かつ危険な結果をもたらすと考え、大衆操作が社会には必要だと考えた。

バーネーズは「コンセンサスの形成技術」を支配に不可欠な手段だと規定していた。既得権益の目的に奉仕するためにひそかに大衆の心を操縦する、魅惑的な「擬似環境」の製作者であった。かれは隠した手によって「ニュース」や「できごと」を作り出す舞台装置の名人だった。改革派の隣に、デマゴーグが並んで立っていた。このデマゴーグは巧妙な幻想を作る達人であり、経営利益のために公衆の領域を植民地に変える力となった。

【歴史的背景 1】

1920年代までのあらまし

1907年 著名なアメリカ人哲学者ウィリアム・ジェームズが『プラグマチズム__古い思考様式の新しい名称』と題した本を出版

プラグマティズム
wiki概要
プラグマティズムは1870〜74年の私的なクラブに起源を有する思想であり、その代表的なメンバーとしてチャールズ・サンダース・パース、ウィリアム・ジェームズらがいる。
「プラグマティズム」は20世紀初頭のアメリカ思潮の主流となった。心理学者の唱える「行動主義 behaviorism」、記号論研究者の「科学的経験主義 scientific empiricism」、物理学者の「操作主義 operationalism」など及んだ影響は広く、現代科学では統計学や工学においてこの思想は顕著である。プラグマティズムは、社会学、教育学、流通経済学などアカデミズムにも多大な影響を与えたが、それにとどまらず、アメリカ市民社会の中に流布して通俗化され、ビジネスや政治、社会についての見方として広く一般化してきた。
その歴史は前期と後期に大別され、後期のプラグマティズムはシカゴ大学を中心に発展したため、シカゴ学派とも呼ばれる。シカゴ学派の代表的な者にジョン・デューイ、心理学者のジョージ・ハーバート・ミードらがいる。
その後、チャールズ・W・モリス、ジョセフ・フレッチャー、ウィラード・ヴァン・オーマン・クワイン、リチャード・ローティらによってネオプラグマティズムとして承継発展されている。

1920年代初頭までに、戦争がもたらした実際的な教訓と、ひろく普及し続ける社会心理学の知識とが結合して、アメリカのインテリたちの多くを、しだいに二つの結論へと誘導することになった。

1)合衆国のような大規模な近代化社会は、世論の分析と管理を専門とする専門家集団による助けを必要としているという信条。

2)ハロルド・ラズウェルが「姿なき技術者」とよく呼んでいたこれらの専門家たちは、本質的に非論理的な民衆を取り扱うのだから、民衆の態度と思考にもっとも強い影響をおよぼすことができるコミュニケーション技術は何かを学習し、それに習熟しなければならないという信念。

P186

ルーズベルトの登場

1930年代、ルーズベルトによって広告を民衆にとって良い方向に利用し、ニューディール政策を行った。産業別労働組合の組織化が生じ、企業が暴利を貪ることから国民を守る制約をつくるために人々が立ち上がり、協同組合が生まれた。

​​P370〜371

20年代に企業の指導者や企業広告の専門家によって用いられた手法がしだいに通用しなくなり、企業は政治的・経済的に組織された団体としての消費者というものに直面させられつつあった。企業は公衆の心を操縦することができるという、20年代を通じて企業社会に存在し続けた傲慢が、色褪せていった。企業の指導者や企業広告の専門家にとって、資本主義の生き残りと、アメリカの未来におけるその位置が、疑問視されるようになった。このような危機感が、この時代の企業広告の発展を促した。多くの企業経営者たちは、広告と広報活動を企業経営にとって関心を払うべき至上命令とみなし始めた。そして、このような経営思想が独立した広告活動機関の発達をうながす肥えた土壌と化した。

エドワード・バーネーズの企業

イヴィー・リート・T・J・ロスの企業

カール・バイアー商会

ウィータカー&バクスター

ヒル&ノールトン

バーナード・リヒテンバーグ広告会社

その他数多くの組織がこの危険な時代に成長を遂げ主導権を獲得したのである。

《​​事例3》架空の大衆によるキャンペーン

1935年、百貨店の全国チェーンが市民から攻撃の的となった時に、ニューヨークで食品業界の談合が開かれ、スーパーマーケットの全国チェーンの利点に関する広報活動を実行する陰の組織として全国食品百貨委員会(National Food and Committee)が作られた。カリフォルニア・チェーンストア協会も1939年にこの例にならい、消費者教育協会(Foundation for Consumer Education)という裏組織を作り上げた。チェーンストア業界との関係は秘匿されたまま、この協会はことさらに「消費者の利益」に奉仕する中立の情報交換組織だと宣伝された。まるでこの轍を踏むかのように、1938年には、カール・バイアー(この人物の経歴の中には、米国におけるヒトラーの第三帝国の代理人というものまで含まれていた)を使って、A&Pが、チェーンストアへの連邦税課税に対する反対に大衆的支持が寄せられているという架空のキャンペーンをでっちあげた。こうしたさまざまな世論操作によって、チェーンストアの活動を制約しようとする立法は、ことあるごとに、全国規模でも地方規模でも効果的に妨害された。

Wiki
A&P
1859年の創業時は「ザ・グレイト・アメリカン・ティ・カンパニー」と称した。「偉大なるアメリカのお茶の会社」。この会社は小売業だった。それが10年後の69年にA&Pに社名変更。
1930年、世界恐慌の翌年には、A&Pは1万5737店という巨大なチェーンストアへと成長を遂げていた。
全米ナンバー1のスーパーマーケット・チェーンの地位を1970年代まで保持した。

【歴史的背景 2】

産業組織、全米製造業社協会(NAM)登場

1930年代半ば以降、とくにルーズベルトが1936年に圧倒的多数で再選を果たして以降、個別企業がその利害を超えて大同団結した広報活動へという局面を生み出した。この大同団結の背景にあった推進力は、ウォーカーとスクラーの記述の中に頻繁に現れる全米製造業社協会National Association of Manufacturers(NAM)という産業組織であった。

P383

協会の会員数は増加し始めた。『フォーチュン』誌によると、1935年から1941年の間に2500企業から8000企業へ、三倍以上に膨らんだ。個別企業だけではなく、協会は1937年になると、24州にまたがって「数十万の会員と、参加に多くの製造業社の全国組織を擁するにいたった」。この6年間に、協会の広告予算は50万ドルから年間100万ドルに増加しようとしていた。

中略

NAMのリーダーシップのもとに、GM、クライスラー、USスティール、ゼネラル・エレクトリック、シルバニア、デュポン、カーティス出版、ゼネラル・フーズなどなどのアメリカ企業の経営陣が実働部隊の陳列を敷いた。その任務はニューディールのプロパガンダと戦い、政府の政策が社会に福利をもたらすという思想を打ち砕き、アメリカの民衆の心と想像力をとらえて資本主義制度を守ることにあった。

中略

協会が大企業を代弁していたため、小企業や各種専門業種を代表した合衆国商工会議所の援助をえながら、この聖戦は「アメリカン・ウェイ(アメリカの流儀)」を守るためのキャンペーンと称された。

P388

中産階級の企業に対する批判(の成長)を和らげるために、協会が広報活動でまずおこなったことは、

1) アメリカの企業社会と普通のアメリカ人大多数との間には、利害関係の調和があるという宣伝であった。「自由企業」という経済原則と「デモクラシー」という政治原則とが「たがいに関連し不可分だ」という観念を作り、広告テクニックを駆使してひとびとの中に心理的に固定させようとした。「自由企業を、大衆の意識の中でデモクラシーと不可分である言論の自由、報道の自由、信教の自由と連合させる」

2) 所得に応じて税を負担し、貧しいものは少なく、富んだものが多く所得税を払うという累進課税制度が、デモクラシーの原則として一般に支持されるようになっていた。そこで、税に対する「不満の火に油を注ぐような」行動をとる必要がある。「隠れた税金」の不平等がどれほど番人を痛めつけているかについて語る。

3) 労働組合という厄介な問題に取り組むこと。

4) 政府ではなく資本主義に基づく産業が、変化への牽引力となるような未来の姿を示さねばならない。この課題は、ニューディールが示す未来像に対抗できる説得力を必要とした。また、非常に多くの若いアメリカ人が左翼的傾向を示している以上、とくにこの「若い世代」に接近し、彼らに「それは誤っている」とアピールしなければならない。教育改革プログラムを立案し「形成期にある若者の心に」影響を与えることが不可欠だと主張した。

この目的を遂行するため、協会のメンバー企業にアメリカン・ウェイの計画に参加することの重要性を確信させ、合衆国中のコミュニティーに協会のキャンペーンを浸透させるために協会の地方組織を作った。



戦時下という状況を利用した戦時産業会議の登場

戦時産業会議は1938年、NAM協会内に(ゼネラル・フーズの)チェスターによって設置された広報詰問委員会。米国が参戦するにあたって軍需産業の調整に従事した。

全国の主要企業_GM、ゼネラル・フーズ、スタンダード石油、デュポン、ランバート製薬(2000年にファイザーに合併)、その他__の代表から構成され、協会とその最有力メンバー企業とが広告に名を連ねるような戦略配置になっていた。GMのポール・ギャレットが主催し、定期的に会議を持ってワイゼンバーガーに報告するこの委員会が、実行する、また実行予定の活動の詳細について意見交換をした。


広報委員会=CPIによる全国への宣伝活動

第一次世界大戦のクリールによる広報機関を参考に、コミュニティー組織化のための活動がなされた。CPI(広報委員会)のメンバーを選任するにあたって、各地方ごとのCPIはその土地の著名企業家と専門家によって構成され、「代表となる市民は主たる目標(私企業制)に利害を持ってい」て、また(活動の推進に必要な)「資金調達源と適切な関係を持つ」。各地の新聞に土地の会社にとって好意的な記事を掲載させ、全国レベルで作成された協会のメディアをコミュニティーレベルに浸透させた。

広報委員会(こうほういいんかい、Committee on Public Information、略称:CPI)とは、第一次世界大戦へのアメリカ合衆国の参戦に向け、国内の世論を誘導すべく立ち上げられた同国の政府広報機関[1]。連邦政府としては初の専門職による広報集団であった[2]。クリール委員会あるいはクリール広報委員会[2]とも称される。
1917年4月14日から1919年6月30日にかけて国民の間に戦争への熱烈な支持を形成し、アメリカの参戦を挫こうとする外国の目論見に反対する世論を追求した。この目的を成就するため、プロパガンダ技術を第一に用いることとなる。

CPIによる教育機関への介入とプロパガンダ

地方の教育機関も、CPIの責任分野であった。「各学校図書館に、企業の見方を代弁する参考図書が備わっているように監視する責任である。「公立図書館」に関しても同様である。どちらの場合にも、協会が若者に向けて作成した資料が届き、展示されるよう監視させられた。「市民クラブ」「婦人集会」「黒人集会」「外国人集会」、さらに「映画館」などが、アジテーターたちが演説を行う場としてあげられた。「雇用者と被用者」との集会も奨励され、また企業は周辺地域への「集会場」を開くべきだと要請された。インフォーマルな話し合いの方向に影響を行使する目的で、CPIは「技師や労働者を監督するひとびと」に「産業資料集」を提供した。この資料集は、職長が労働者や監督かのひとびとから聞かれる「平均的な疑問」に答える、有益な回答集となるように書かれていた。

また、全米経営者協会は『あなたと産業』と題した冊子シリーズを、学校、大学、公立図書館で配布するために出版した。このシリーズは「平易な文で、民衆の言葉で」というモットーのもとに、協会のいうところによれば魅力的なデザインで、「やさしくわかる」ものであった。ワイゼンバーガーのことばによれば、この『あなたと産業』シリーズは若者を対象とする「キャンペーン全体の精髄」であり、「個人の感情を産業システムに結びつける」ことが狙いであった。

1937年からはじまった「少年少女のための週刊ニュース」では「あなたの街の銀行」、「よりよいアメリカ人になるために」、「アメリカ企業は市民自身が販売者です」などの記事によって、毎週ユーザーフレンドリーな資本主義のイメージが提供され、このシステムが少年少女自身、その家族、このコミュニティ、その他もろもろの利益を考えてサービスをするシステムだと説明された。

NAMは学校、劇場、その他の公共のばに向けたドキュメンタリー・フィルムも制作した。パラマウント映画を通して配給されたこの映画の多くが、刺激的なトーンを持っていた。たとえば『前進するアメリカ』という10分ものシリーズは、「アメリカは高生活水準に向かって、上へ前へと進み続ける。民衆に高所得とより多い余暇を与え、生活をエンジョイさせるために、世界がかつて経験したことのないもっとも優れた産業システムが発展をはじめた。」といったストーリーを歌い上げていた。


メディアを利用した戦略

NAMの思想をユーモラスに伝えるための漫画も、3000以上の週刊誌に配信された。そこでは、ある人物が税金を絞りあげられてボロボロになった様子で描かれている。その背後で太った猫たちが浮かれ騒いでおり、それには「浪費政治家」と書かれている。

これらにあわせて、アメリカの私企業が世界一優秀だという数字が挙げられていた。一方深刻な方の記事としては、6人の独立した学者と称する人々が交代で、全国265の新聞に経済に関するエージェント記事を書いていた。『あなたとあなたの国の問題』という特集には、この6人(プリンストン、バンダービルド、ニューヨーク大学、スタンフォード、南カルフォルニア大学の教授たちと、アメリカ政治学・社会科学アカデミー会員アーネスト・マイナー・パターソン)が、ニューディール政策の誤りによってアメリカ経済が悲惨な状態にあることを論破し、規制のない自由企業こそ経済再建へのもっとも確実な道であると書き続けた。「第三者広告」の戦略に従って、これらの記事への協会の関与は注意深く隠された。多くの新聞経営者たちはニューディールに敵対的であったから、秘密を守りながら嬉々としてこの特集を受け入れ、掲載し続けた。

アーネスト・マイナー・パターソン(シカゴ大学出身、1930年から1953年までアメリカ経済社会協会の会長を務めたアメリカ政治社会科学アカデミーの会員。世界経済、世界経済における米国の位置、国際関係、および政治システム)


第二次世界大戦を機に行われたイデオロギー的統制の実験

合衆国の第二次世界大戦への参加は、国民を血に飢えた戦いの旗印の中に置くことによって、連邦政府、巨大企業、およびアメリカ人の大多数が、ファシストの攻撃から世界を救うという格好の共通目標を見出した。そして1930年代を通じて国民の注目を集めていた極度の不平等が、民衆の目から遠ざかり始めた。

1934年フィラデルフィアで開催されたNAMの役員会で、サン石油社長J・ハワード・ビューは、戦争努力への産業界の貢献はいまや、民衆のあいだに「アメリカのビジネスに対する良き理解の基盤」を作りつつある、と演説した。アメリカの企業社会は「30年代に中傷と攻撃にさらされ、無理な規制や制約にしばられたが、」いまや「この危機の瞬間に、国家と世界の防衛に」奉仕するものとして、正当な存在となったと、彼は宣言した。

システマティックな組織をもって、ビジネスが大々的に広告キャンペーンに乗り出し、私企業に、今度こそ民衆の意識を支配し得たという自信を与えた。このキャンペーンは、ラジオ記者の率いる戦時情報局によって組織された多数の作家、放送局、出版社、その他のマスコミ専門家によっておこなわれていた。戦争と、それにともない国民の結束を掻き立てる機会が、イデオロギー的統制手段を試す最高の実験室となった。

こうした企ての背後には、想像通りNAMがいた。


アメリカ産業の戦後計画

協会指導層は「戦後世界においてこそ、独立企業の死活が問われる」と確信して、1943年10月にCED経済発展委員会を発足させた。委員会は「隠密裏に」会合をもって、「アメリカ産業の戦後計画」の策定を始めた。

政府の足かせから自由になった私企業は、民主主義の価値と希望とが満たせるのは、自分たち私企業制度を通してだけだということをしめしてみせる必要にも迫られていた。「企業が自分と普通の民衆とのあいだに効果的に一体感を作り出したければ」、より説得的な、民衆の現状に適合する「新しい現実的な語彙」を発見すべきだとした。「新しい語彙」をもとめる動きは、企業が戦争の終結をむかえるとともに劇的に進行した。

第二次世界大戦が終結に向かうとともに、世論を操作するという観念が、しだいにあたりまえなものとなっていった。戦時情報局の指導のもとで山のような広報資料を生産した戦時広報委員会は、戦争に動員されたプロパガンダの専門家たちに向かって、平和時にも動員体制をゆるめないようにと要請した。

アメリカで産・軍複合体の勝利の兆しが生じていた。1945年ウエストチェスター・カントリークラブという秘密会議場に最高権力者たちが集まり、資本主義企業経営が直面する緊急事態について協議し、各人の代表する利害を擁護し、合衆国の未来を、ニューディールとその攻撃的な社会的ケインズ主義という危険から回避させる方策を探った。

この会合が、のちにニュージャージー・スタンダード石油社(SONJ)が招集し、はじめた一連の全国広告会議(Public Relations Conferences)の洗礼となった。

11月19日朝、スタンダード石油広報部を指揮するジョージ・フライアますの挨拶に続いて、エルモ・ローパーが発言を始めた。彼は1945年時点でアメリカを代表する世論専門家であった。世論を客観的に研究していたわけではなく、戦略的見地から分析し、その調査に報酬を払うもののために、調査対象となるひとびとの意識を方法論的に分類し提供していた。

エルモ・ローパー(Elmo Roper)として知られるエルモ・バーンズ・ローパー・ジュニア(Elmo Burns Roper, Jr.、1900年7月31日 - 1971年8月30日)は、マーケティングリサーチと世論調査の分野で先駆的な業績を残したアメリカ合衆国の調査実務家。ネブラスカ州ヘブロン(Hebron)生まれ、コネチカット州レディング(Redding, Connecticut)で没した[1]。
Elmo Roper, Inc. を設立した[2]。1935年には、有力な出版人であったヘンリー・ルース(Henry Luce)の依頼で、『フォーチュン (Fortune)』誌のための調査を請け負うようになり、以降15年間にわたって様々な調査を実施した。OWI離任後の1947年、ローパーは、コネチカット大学にローパー世論調査センター(Roper Center for Public Opinion Research)を創設した。
ローパー世論調査会社(Roper Opinion Research Company、通称「ローパー・ポール (Roper Poll)」)は、後に Roper Starch Worldwide Company と改称し、さらにイギリスの市場調査会社NOPの傘下に入ったが、2005年にNOPがドイツのGfK傘下となったため、そのグループ企業となった。
GfK(独:ゲーエフカー、英:ジーエフケイ)SEは、ドイツに本拠を置く、世界トップクラスのマーケティングリサーチの企業。
1934年、Wilhelm Vershofen教授によりニュルンベルグを本拠とする研究機関として設立。その後海外展開し、1990年に公開有限会社となる。現在はGfK SEとして、世界100カ国以上に約13,000人の従業員を擁する。
日本法人は1979年に設立。ジーエフケー・マーケティングサービス・ジャパン株式会社、ジーエフケー・インサイト・ジャパン株式会社の2社がある。所在地は東京都中野区。


「ビジネスを監視する」民衆をどうやって御していくか

P451

30年代後半にNAMが始めたアプローチを延長させながらも、広告企画のトーンは狭い経営利害から、より大きな政治的考慮が目立つものに変化していった。企業と普通のアメリカ民衆の間に橋をかけねばならないという論調のひろがりのなかで、広告技師たちはしだいに福音者のような口調を帯びていった。

「政府の権威拡大」から「われわれの現在の経済システムを」守る武器として、広告が必要だとのべつつ、ビジネスが「常時大規模なイデオロギー戦争に」参加し、政府の経済計画に対する監視をめざし戦わねばならないと説いた。

「企業の広告努力が成功するには、つねに政治という戦線を視野に入れねばならない…

こうしたことは、合衆国商工会議所、全米製造業社協会(NAM)、経済発展委員会(CED)その他の大全国組織を通じても、行うことができるだろう。」

政府に反対するイデオロギー戦争のなかで、恐慌の時代を通じて、民衆が社会的・経済的問題についてしだいに知識を持つようになった、とハワードチェースが分析している。

自由企業制度は、企業が、「人間のこころと忠誠心を獲得する」競争に成功しなければ存続が困難だと、自問自答している。企業の広告がこの方向で成功を収めなければ、民衆は政府が「ビジネスを監視する」ように期待することをやめないだろう、とつづけている。

1946年にも、広告業界の怪物的大企業ヒル・アンド・ノートンの共同創立者ジョン・W・ヒルが、企業経営者と労働者や民衆全体とのあいだの深い亀裂を埋めることが、当面広告に課されたもっとも緊急な課題だと論じている。ヒルはビジネスが、異議申し立てグループにたいする社会的指導力を、放棄するわけにはいかないと警告する。

ジョンソン&ジョンソン製薬社長のロバート・ウッド・ジョンソンは、1949年に『ハーバード・ビジネス・レビュー』のなかで、ビジネスは「永続する完全な社会政策」を開発する必要がある、と論じた。彼の用語を使用すれば、企業は、一般民衆の利害と自分の利害を調和させられる社会的「受託者」の地位を引き受けるべきだ、という。


冷戦開始が「産軍複合体」を正当化した

ニューディールで権利に目覚めた民衆への危機感を抱いたアメリカ企業は、その政策の正当性を否定する必要があると考えた。

冷戦開始は、政府活動に攻撃を加える好都合なきっかけとなった。

第一に、「アカの脅威」なるものが、公共の富を、あらたに出現した「産軍複合体」に向かって絶え間なくつぎ込むことを正当化した。

同時に、連邦政府がかつてない規模で軍需支出をおこなうことを合理化し、これにともなってアメリカの産業経済を、根本から変化させた。さらに、これは連邦政府の社会問題への支出に関する、議論の前提自体を変化させた。政府が「防衛産業」に莫大な予算をつぎ込むことは、疑問の余地なく愛国的__アメリカのデモクラシーを守るために不可欠」」だとされたが、反対に連邦政府が社会計画時予算支出をおこなうことは、しだいに伝統的自由の破壊だとされるようになった。


アカ狩り

リップマンによって、反対勢力を悪人で裏切り者だと決め付けることが必要だという論点が持ち出された。1940年代終わりからは、ニューディールの社会ケインズ主義的政策は、邪悪なコミュニズムへの移行そのものだとレッテルを張ることが、しだいに多くなっていった。国内最大の宣伝機関のひとつとなったのは、J・エドガー・フーバーであった。彼は、CIA長官というよりはプロパガンディストで、合衆国が占領されているという、執拗で容赦ない広告活動の土台作りを何度も繰り返した。これに追随したのが、共産主義の手先を審問するという目的を掲げた、あの悪名高い議会委員会であった。またメディアの民間ネットワークもフーバーのドラムに合わせて更新し、「アカの脅威」を許せばどうなるかという、おどろおどろしいイメージを流し始めた。


私的支配に基づいた医学・産業複合体の台頭

全国の有権者組織のなかでは、医師たちだけが、既得権が侵されることを恐れて、健康保険法案に反対を表明した。

健康保険法案には、見せかけの他人愛護にかくれて忍び寄る、強制という悪がひそんでいるというレトリックを、勢力的に展開した。11ヶ月の期間中に、140万ドルというかつて例のない巨額の宣伝費用を使用しつつ、ウィタガー・アンドバクスターは、全国健康保険を「強制健康保険」と名付け、農民組織、女性のクラブ、宗教団体、退役軍人、ビジネス、教育関係、その他の市民グループなどに的をしぼってお大々的な宣伝攻勢を展開し、成功をおさめた。この結果1949年11月には、全国健康保険法案は日米活動の烙印を押されて犠牲となり、流産するに至った。

予算の半額は「防衛と攻撃の目的に使われたが、キャンペーンの末期になると残りの半分が「任意健康保険を創立し、拡散し、サービスを改善するために」使用された。バクスターは「われわれはアメリカの民衆に完全なる自信を持たせるために、戦闘的な指示をせねばならない」とし、連邦政府掌握のヘルスケア制度への具体的な対案を用意する必要があるとする。この必要に対応して、私的健康保険が多くの労働者の待望する「付加給付」として、徐々に増加することになった。

こうして、連邦政府の保証する人権としての健康保険という理念は潰えた。

(アメリカ国民である)われわれが今日持っているヘルスケア制度、すなわち強大な、私的支配に基づいた医学・産業複合体が、連邦政府が保証するヘルスケア制度のかわりに台頭することになった。


民衆を、声なき、操作可能な何者かに変える方策

またしてもデモクラシーの担い手である民衆を、声なき、操作可能な何者かに変える方策を追求していた。デモクラシーの理念を掲げながら大衆的に世論操作をおこなおうという、この奇妙に矛盾した発想は、1947年に書かれたエドワード・L・バーネーズの『コンセンサスの形成技術』というエッセーにおいて雄弁に表現されていた。

彼は権利章典の拡大解釈を、民衆の発言機会の拡大だとはしなかった。モダンなメディア・ハイウェーの知識を持ち、かつそれにアクセスできる知識人に、民衆全体の思想を善導させるための特権だと解釈した。

p475

「コンセンサスの形成」のための専門家

バーネーズは、誰もがメディアを通じて同胞市民の態度や行動に影響を与えることができる広告専門家が「必須」であるという議論を展開した。「メディアは、近代の思考循環システムにとって、あたかも鼓動する心臓のようになった。専門家の助けを得ることによって、指導者は必要なときにいつでも、「コンセンサスの形成」と呼ぶべき問題を、効率的かつ科学的に達成できるのだ」と、バーネーズは書く。

操作的影響を加えたいと思う集団が、どのようにして、またはどのような戦術を採用すれば効果的に動かせるかについても、詳しく研究する必要があるという。バーネーズの言う「調査」は、現在のデモグラフィーを駆使する洗練された調査法や、コンピューターを使用したデータ分析や、統計的な「フォーカス・グループ法」の使用まではいたっていないがすでにテクノクラシーにもとづく指導と、社会科学的調査が、近代権力の支配にとって不可欠な道具だという信仰の告白には十分なっていた。

「世論を調査すれば、戦略上の重要主題はおのずと浮かび上がる。どのような思想を彼らに伝えるべきか、民衆への伝達チャンネルはどうか、どのようなメディアを使用して伝えれば良いか、などの主題である。これらの主題はかならず存在するのだが、小説でいう「筋書き」のように、見えないものだ。成功するためには、このような主題が民衆の動機にアピールするものである必要がある。」


ニュースを作る技術

理解しやすく加工された心理的環境を作り出す能力が、何かを、あたかも真理であるかのように通用させることができる。

バーネーズがいうように、コンセンサスの技術者は「ニュースを作るべき」である。技術は大衆的事件を演出し、これによって大衆の注目を集め、希望する結果を継続させるための事後承認を獲得するのである。

ニュースは生き物だ。人前での行動からニュースができあがり、そのニュースが逆に、民衆の態度や行動を作り出す。ニュースの良し悪しの決め手は…事件がどれほど普通のパターンから外れているかだ。展開や状況が意外な事件が、コンセンサス作りの要求の基本だ。そうなるように作られた事件ほど、コミュニケーション・システムのせいで、実際にそれに参加したひとびとよりはるかに多くのひとびとに到達し、また伝えようとする思想をいきいきとドラマ化して、事件の目撃者でないひとびとにそれを、伝えるものだ。

ニュース化する価値があり、人に見せられるような事件が偶然によって起きることは、ほとんどない。そのような事件は、ひとびとの思想と行動に影響をあたえる目的のもとに、熟慮によって作られたものだ。

アール・ニューサムは、民衆の反応があらかじめ予想できるシンボルを使用し、民衆をこれに一体化させる必要があると説いた。「民衆は誰もが特定の重要な感情的態度をもっている」このような思想の背後には、民衆は感情によって動かされるもので、批判精神は持ち合わせていない存在だ、という考えが存在している。「群衆のこころ」は、いまや意図的に刺激し、操作によって支配することができる何者かに変化しつつあった。

Wiki エドウィン・アール・ニューサム(1897–1973)は、広報のアメリカ人カウンセラー。彼は、スキャンダルと論争の真っ只中にいくつかの大企業を管理し、カウンセリングした彼の広報会社、アールニューサムアンドカンパニー(ENCO)の成功で最もよく知られている。世界第3位の規模を誇る持株会社であったエクソン社となるスタンダード・オイル社は、42年3月25日、独禁法違反の判決により1件5000ドルの罰金とI.G Farben社から取得した特許技術の公開が課された時にアール・ニューサムへのカウンセリング依頼をした。


テレビの登場

1944年のボストンでの配信業者会議の中で、RCAのラジオ・フォノグラフ・テレビ部門の総支配人T・F・ジョイスが、「テレビがまもなく民衆の中にたくさんの関心を喚起し、同時に未曾有の説得手段を提供する結果、アメリカ人の生活の輪郭を変えてしまうという青写真を提示するだろう。有効な広告という点では、そのためのあらゆる要求をテレビが、何にもまして完全に満足させてくれる」とジョイスは指摘した。

テレビこそ世論操作者にとって夢の実現そのものだという思いがまぎれもなく存在していた。

民衆の運動と、それにつづく新たな決断の記憶に対抗するかのように出現したテレビは、強大な社会的メタファーでもあった。民衆の生活をスペクタクルとして強調し、参加するものでなく見るものだという観念を強めさせたのである。テレビは、高度に中央集権化された発信システムと、圧倒的に私的な受容の様式を作り出すパノプティコンのような構造のせいで、「バーチャルな民衆」というべきものを作り出しそれに力をあたえるコミュニケーション構造が可能だという思想を示唆したのである。

現に集団として居合わせない民衆に向かって「イメージを発信する」という感覚が、しだいに企業広告活動の常識となりつつあった。この種の思想は、とくに急速に膨張しつつあった世論操作産業の考え方のなかにひろく見られた。

広告界が視覚上の無意識を、これほど自覚しつつあった時代ははじめてであった。ことばを離れてイメージに頼りさえすれば、ひとびとは送信されるメッセージに不可抗力になる、と、デュポン社広報部のチャールズ・M・ハケットはこの点を強調した。


コンセンサスの製造のために担ぎ出されたロナルド・レーガン

ロナルド・レーガンをハリウッド俳優から大統領に変身させたのは最初からコンセンサスの製造という考え方に精通した起業家および企業広告の専門家たちの仕業である。基本的に白人の中産階級アメリカ人取り込みを狙った自由企業に対する賛美、ニューディール政策の皮肉な模倣、イメージへの一貫した系統など、すべて一連の専門家チームに支えられて実現した。1945年レーガンは映画俳優の職を捨て、8年契約のゼネラル・エレクトリック社公式イメージキャラクターとして働き、産業の巨人に人の姿を与えた。「われわれはかれを極限まで利用した。中産階級アメリカ人のイメージにかれをどっぷり浸した」と、GE社の広告担当者エドワード・ラングレーは回想している。こうして企業の広告屋としてメディアに移る機会が多かったレーガンは、このころさらにNAMのスピーカーとして常連になっていた。

レーガンのテレビ映りのよさと愛嬌のある庶民性は、かれを完璧な企業の代弁者に仕立て、また保守政治的動機にとって理想的な覆面にした。その愛想の良い外面で、白人中産階級のすべてのひとびとにあたかも自分が権力を握っているかのような幻想をあたえることができた。同時にかれは、企業エリートの利害に奉仕する政策を推進した。企業福祉制度、富裕層の減税、小売順の軍需生産、環境主義への抵抗、労働組合の権利削減、企業に対する規制緩和、ならびにニューディール政策に端を発する社会福祉の破壊などである。


デモクラシーと富裕エリート支配の融合

コンセンサスの製造技術が正当化され、同時に民衆の態度が統計調査から研究され、事実の粉飾が洗練の域に達するにつれ、長きにわたった広告とデモクラシーとの複雑な関係はついに危機的な帰路に立つにいたった。

デモクラシーと、その対立物である富裕なエリートによる広領域の支配とが、こうしてひとつの妥協へと融合した。ハワード・チュースはこの対立物の危険な融合について、完結かつ雄弁につぎのように書いた。「コンセンサスの製造技術とは、他者たちの態度を、その意思の有無にかかわらず変化させるために、あらゆる説得とコミュニケーションの装置を使用することである。この態度変化は、あらかじめ決められた結論に向けての変化であり、その結論に達することは公衆の利害に有益だろうが有害だろうが、無関係である」。


民衆による多様なカウンターカルチャーの台頭

1960年代、70年代には、またもや公衆の断固たる決意が頭角を持ち上げそうになった。50年代の暗黙のコンセンサスが破られ、企業版「よい生活」像や合衆国が夢の「機会の国」だというイメージが、米国国内からもおっ区外からも疑惑の目で見られることが多くなった。公民権運動、ベトナム反戦運動、女性の権利活動、環境保護運動などを含む多様な声が、消費文化の価値観を疑わせ、多くのひとびとがこの「機会の国」を元に亡命した状態にあることを証明した。この時代には規制のシステムに不服従の日商業的メディアも和夫多く出現しはじめた。中でも、企業が支配する新聞の観光になじんでいない親米ジャーナリストたちが、乏しい費用で作った「アンダーグラウンド」新聞の活躍がいちじるしかった。これらの独立メディアが国中にひろがり、若い世代に歴史が彼らの手中にあると自覚させつつ、伝統的にメディアとオーディエンスの間にあった壁を食い破った。

このようなカウンターカルチャーの思想が登場し、多様な異議申し立てが噴出し始めたことを前にして、企業広告の思想はまたもや守りの体制に入った。広告専門家たちは、街頭に出現しつつある多様性と自己決定の原則に寄り添い、それを受容しなければならない。


分析・細分化し操作される民衆

世論操作の産業はこの多様な声を一連の操縦しやすいカテゴリーに区分けし始めた。世論のひとびとの行動を、社会統計的な要因によってばらばらの分析単位に分割し、一連の「ライフスタイルとか「サブカルチャー」などの作られた概念にしたがって研究した。いったん研究されると予測可能なように管理する傾向が60年代後半になって始まり、70年代にますます強くなっていった。広告専門家、政策コンサルタント、社会心理学者、マーケット調査専門家、広告コピーライターなど目的別専門家たちが、特定のひとびとのグループに、自分自身の用語を使っていると思いこませるイディオムで語りかけることを可能にした。

カスタムメードの公的発言集の数々、世論調査機関が巧妙に作り上げる役に立つ「世論」や、意図的に計算され製造された作られた社会的集団の感情に訴求するメッセージや商品が、まるで伝染病のように広がった。

社会的統計的な特性によって区分けされた思想のマーケティングがデモクラシーの証明のようにふりかざされた。異なった人々の集団が「自分たちの声と錯覚するもの」を聞かされるようになった。広告専門企業が世論の動向を把握し、グループ間の争いを煽ったり、特定のひとびとに対する偏見を助長したりすることが可能になり、その結果社会をますます細分化し操作可能にする傾向が生じた。P516


公衆領域の植民地化

黒人市民、女性、ゲイ、福祉によって生活するひとびとなど、あるひとつの特殊グループにたいして大々的に宣伝される「利益」が、同時にその反対の、たとえば白人、男性、異性婚主義者、給与生活者などによって「損失」だという広告と抱き合わせで提示された。このようなプロセスを通して、デモクラシーという共通目標を持った多様性に満ちたひとびとの連帯という、ニューディール的な「公衆」の概念が、破壊されていった。ニューディール的「公衆」のビジョンが提示される場合にも、それは際限ないビジネスの収奪を制約したいときだけに限られ、社会集団間の利害葛藤は、深まるばかりであった。一方企業間の結束は強まるばかりであった。

経済効率という口実のもとにますます多くの企業が、その30年以上前には公衆の決意にこたえるものとされていた、福祉資本主義的な公共政策を縮小または放棄していった。これにともなって、イメージ操作、情報操作、やらせ的組織化などが、社会統計とテレビの力に助けられて、目に見える表面だけの公衆の生活として供給されることになった。この事実をもっとも露骨に表現したものが、1974年発行のフィリップ・レズリー著『社会的雰囲気の管理における民衆という要素』という本である。

あの全国製造業組合(NAM)の政策がふたたび時代の規範になった。

広告が大衆のデモクラシーの運動に対抗するものとして登場し、また公衆領域の植民地化を意図して機能しはじめた。20世紀の時代を通じて公衆が互いに作用しあい、表現し合う領域が次第に減少し続け、他方で民衆の心を操作し民衆の視覚に訴求する装置が次第に拡大し、技術進歩と専門家の存在によってますます巧妙なものになる変化が起きた。


専門家の手段である広告の思想を乗り越えろ

公衆の行動プログラムが絶えず「目に見えない世論操作専門家」によってあらかじめ決められていても、はたしてデモクラシーは成立しうるだろうか。広告活動が富の著しい集中化によって支配され、この権力を維持する隠れた目標のために使用されるようになり、思想の自由な交換を妨げることになると、それはデモクラシーを阻害する。このようになると民衆の参加はただの見世物に変化し、ひとびとの感情を刺激する道化芝居になりはてる。だから、デモクラシーの未来の可能性にとって、思想の交換を大きく促進する方策が、経済状態のいかんに関わらず絶えず追求される必要がある。追随を演出する専門家の手段である広告の思想を乗り越え、討論がたえず、徹底的におこなわれるプロセスを構想する道について、学ぶ必要がある。


作者から未来への提案

他のあらゆる変化の前提条件として、われわれは社会統計的なアイデンティティの枠組みに被疑を挟む必要がある。「公衆」を自己自身と区別させ、批判的な距離をおいてみることによって同じ利害を共有するはずのひとびとを、「隔離」してしまっているからである。社会統計は、分割統治の強力な手段である。これと戦うために、われわれは社会的連帯感を再発見すべきである。個人としてであれ特定集団のメンバーとしてであれ、われわれは自分の外に他者を見る視線ではなく、他者の中に自分を見出し、自分の関心や希望を他者のものの中に再発見するすべを学ぶべきである。こんにち、既得権力の代表が、傲慢に世論の名において行動していると主張している。社会統計という手段で武装したコンセンサスの製造屋が、公衆の行動計画を支配し続けている。この現状を変更するためには、われわれ自身が階級とか人種とか、民族とかジェンダーとか思想とかによって通常のアメリカ人同士を区別し、ありもしないくだらぬ口実で争い合う、心の習慣を考え直すべきである。


まとめ終わっての手塚の感想

この本では基本的にはアメリカ国内でのみ起きた事のように見える事例ばかりだが、実際には巨大多国籍企業としてグローバルに植民地主義的な活躍をしていったと想像している。日本も例外ではなく、また逆に日本の企業は水面下でアメリカの巨大企業と繋がりを持ちながら植民地主義的加害国でもある。そういった被害国の歴史的背景を絡めたらもう少し立体的に物事が見えてくるように思う。今後少しずつ取り組みたい。



「合意のでっちあげ」に関する実験WS

ノーム・チョムスキー著「メディア・コントロール 正義なき民主主義と国際社会」という本の中にある「合意のでっちあげ」という言葉をキーワードにした実験作りWSのホームページです。

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